天分15年 |
1546年 |
山内盛豊の子として尾張国・黒田に生まれる。幼名、辰之助。
(生年については天正14年説あり)(出生地についても岩倉の説あり)
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弘治3年 |
1557年 |
七月、尾張黒田の居城が夜討ちに遇い、長兄十郎が討死。
(父はこの時に討死したとの説あり) |
永禄2年 |
1559年 |
織田信長の岩倉城攻めで父盛豊が討死し、岩倉を追われる。
辰之助は元服して通称を伊(猪)右衛門、一豊と名乗る。 |
永禄10年 |
1567年 |
1567年から1570年までの間に、信長の家臣となる。
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元亀元年 |
1570年 |
越前国金崎の合戦及び姉川の合戦で戦功を立てる。
これにより、唐国200石を信長から与えられる。
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天正元年 |
1573年 |
近江国長浜唐国で400石を賜る。
若宮友興娘・千代と婚姻。(遠藤盛数娘の説あり)
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天正4年 |
1576年 |
石山本願寺攻めに参加。
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天正5年 |
1577年 |
播磨国にて2000石を賜る。
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天正9年 |
1581年 |
山内一豊の名を一躍有名にした馬揃が行われる。 |
天正10年 |
1582年 |
播磨国印南郡のうちから500石加増される。
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天正11年 |
1583年 |
河内国交野郡にて360石の加増される。
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天正12年 |
1584年 |
近江国高島郡長浜で5000石を与えられる。
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天正13年 |
1585年 |
近江長浜2万石の城主となり、豊臣秀次付きを命ぜられる。
長浜大地震により屋敷が倒壊し、娘のよね姫を失う。
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天正14年 |
1586年 |
正五位下対馬守に叙せられる。
京都屋敷の門前に捨てられていた子を引き取り、
拾と名付けて養育する。のちに連枝衆として僧籍にいれる。
(妾腹の子を拾い子として育てていたという当時のうわさも今に伝えられている)
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天正18年 |
1590年 |
小田原城攻めに参加、遠州掛川5万石の城主となる。 |
天正19年 |
1591年 |
駿府城主の中村一氏と協力して大井川の治水工事に着手。
山を切り開いて大井川の水路を変える大土木工事を行う。 |
文禄元年 |
1592年 |
朝鮮遠征の時には、秀次に属して京都を守る。
弟・修理亮康豊の長子、忠義が生まれる。
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文禄2年 |
1593年 |
掛川城北の永法院を修復し、総門を建立する。
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文禄3年 |
1594年 |
伏見築城の緒役に従う。周智郡の蓮華寺に、寺領を寄進する。
伊勢国鈴鹿郡で、1000石を加増される。
掛川領内の検地が終わる。
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文禄4年 |
1595年 |
遠江の秀次の領地のうち、8000石の加増を受ける。
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慶長2年 |
1597年 |
掛川城外堀の土砂やごみを取り除く工事を行う。
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慶長5年 |
1600年 |
関が原の合戦の論考恩賞により土佐一国24万石を拝領。
長宗我部の遺臣たちが浦戸城に立てこもって抵抗しするが、
弟の修理亮康豊を入国させて一揆方270人余を斬首。
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慶長6年 |
1601年 |
土佐に入国。
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慶長8年 |
1603年 |
3月、土佐守に叙任される。
後の高知城が完成する。「高知城」としたのは二代忠義から。
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慶長9年 |
1604年 |
吾川郡八田村の100石を、伊勢神宮領に寄進。江戸に下向。 |
慶長10年 |
1605年 |
一豊、千代、忠義が伏見城で、徳川家康・秀忠父子と謁見。
松平定勝娘・阿姫が家康養女となり、忠義に嫁ぐことが決まる。
このとき忠義14才、阿姫11才。
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慶長11年 |
1606年 |
9月20日、一豊死去。没61才。法号を大通院殿心峯宗伝。
養子の忠義が土佐山内家を継承する。
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元和3年 |
1617年 |
千代、死去。没61才。 |