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「黄金十枚と馬揃え」(1581年)
「千代からの密書」(1600年)
「小山評定での掛川城献上」(1600年)
※他に、一豊と千代に関する逸話をお持ちの方がいらっしゃいましたら教えてください。
 
1581年
「黄金十枚と馬揃え」
山内一豊の名を一躍有名にしたのはなんと言っても天正九年の馬揃えです。
馬揃えとは、近く行なわれる合戦の前に、馬を一堂に集めてその検分をするものです。
一豊はわずか400石を食む身分だったにもかかわらず、家臣をたくさん抱えていたため、
常にお金に困ってるような状態で、老いたやせ馬にしか乗ることが出来ませんでした。

「この痩せた馬で馬揃えに出れば恥をかくに違いない。」
そう考えていた一豊はあるとき、安土城下にやってきた東国一の名馬に出会います。
毛艶、体格などすべてが完璧なこの駿馬を見て家中の誰もがその馬を欲しがりました。
しかし、この馬一頭に付けられた値段は黄金十枚。とても手が出る金額ではありません。

それでも諦めきれない一豊は千代に相談します。
相談というよりは愚痴に近いものだったのかもしれません。
それを聞いた千代はおもむろに立ち上がり奥へと何かを取りに行きました。
嫁入りの際に隠し金として義父から頂いていた黄金十枚を取りに行ったのです。

「ここぞ!という時に使うように」といわれて渡されていた黄金十枚でしたが、
千代は「ここが人生のターニングポイントだ!今、使うべきだ!」と読んだようです。
ここで東国一といわれる駿馬を買えば、織田家中で一豊の名が知れ渡るはず・・・
もしそうなれば黄金十枚で馬を買うことはなどは安い買い物である、と考えたのでしょう。

どんなに苦しくても取り崩さなかった隠し金を一豊に手渡し、馬を買わせたのです。

〜馬揃えの日〜

各武将が精一杯のおしゃれをして馬揃えに参加します。
馬揃えというのは検分だけが目的なのではなく、パレード的な要素も含んでいるのです。

その中に一際目立つ武将の姿がありました。一豊です。
誰もがうなるような駿馬に乗った一豊は満足げに練り歩きます。

するとその姿が信長の目にもとまりました。

「あの駿馬に乗るのは誰ぞ?」
「伊右衛門一豊にござりまする」
「久々に良き馬を見た。あの者に加増してやれ」

こんなやりとりがあったと伝えられています。
こんな会話が繰り広げられたかどうかは定かではありませんが、
この馬揃えの一件により信長の覚えもめでたくなり、
一豊は信長に活躍をアピールする機会に恵まれるようになっていきます。
つまり駿馬の購入が出世の糸口になったのです。

一豊、34・5歳の時の話しです。

1600年
「千代からの密書」
豊臣秀吉・前田利家といった豊臣家の支柱が相次いで逝去したことにより、
かろうじて保たれていた平安の世はあっけなく崩壊することになりました。

この年の7月、一豊は家康に従って小山(栃木県)の陣地にいました。
豊臣家(実質的には家康)に反旗を翻した上杉景勝を討伐するためにです。

するとある夜、一豊の元に一通の密書が届きました。千代からのものです。
その密書は家臣・田中孫作が命からがら大阪の千代の元から届けてくれたものでした。

彼はまず百姓笠の緒の中にこよりにして忍び込ませていた密書を差し出しました。
「文箱のほうは封を切らずに内府様(家康)に差し出しますように」と書かれていました。

つまり、この文箱の中には三成陣営の増田・長束が連盟した大坂方への勧誘状と、
家康が読むと好意を抱くように気を利かせて書き綴った千代の添え状入っているから、
封を切らずに家康に差し出すことによって政治的に利用しろ、というのです。

具体的には、大阪方には三成を中心とした挙兵の動きがあること。
自分のことは構わずに家康様に尽力を尽くすようにということが書かれていました。

この意味を理解した一豊は文箱の封を切らずに家康に差し出します。
そして自分は他の豊臣恩顧の武将とは違い家康派である、ということを証明したのです。

これは家康にしてみればとてもありがたい行動でした。
小山に随行している豊臣恩顧の武将の中には旗幟を鮮明にしないものも多く、
彼らが豊臣側につくか、徳川側につくか予断を許さない状況だったのです。

その状況において、一豊の忠義あふれた行動というのは
他の武将の心理にも大きく影響したものと思われます。

この一件により、一豊は家康の深い信頼を獲得し、
それが後の土佐一国の恩賞につながっていくのです。
1600年
「小山評定での掛川城献上」
上記の密書などにより家康は大阪方の挙兵の事実を知ります。
そして彼は自分に随行している武将を集めてここで大きな賭けに打って出たのです。

聞くところによると大阪では三成が挙兵したらしい。
諸将の中には大阪に妻子を残してきている者もたくさんいるだろう。
もしこの中に三成方に組したいという者があれば遠慮なく大阪に引き返してもらってよい。
決して邪魔はしないし、うらむようなこともしない。


すると豊臣恩顧の代表格である福島正則が真っ先に発言します。

これはおかしなことを申される。
こたびの戦いは秀頼様が相手ではなく、相手はあくまでも石田冶部であるはずだ。
自分が石田冶部の独善的な野望に加担する理由などひとつもない。
家康殿にお味方することを誓いまする。


それに続いて黒田長政らも家康の味方になることを誓いました。
そして雄たけびの声がひと段落した頃、一豊は家康の前に進み出ます。

家康殿が石田冶部を討つために西上するとなれば東海道を進まれるはず。
それがしの居城・掛川城にはたくさんの兵糧がありますので自由に使っていただきたい。
それだけでなく、掛川城と知行地の一切を家康殿にお預けしたいと思っております。
わが軍は全軍で先陣に加わりますので、旗本の誰かを城代として入れてくださいませ。


これにはその場に居合わせた誰もが驚きました。
自分の全財産を家康のために投げ打つと申し出たからです。

家康はこの言葉に感動し、目を潤ませたと言われています。
この発言により他の東海道に城を持つ武将は我も我もと城の明け渡しを申し出ました。
家康は一豊の発言により、何もせずに東海道の諸城を手に入れることが出来たのです。

関が原の本戦で目立った戦功がなかったにもかかわらず、土佐一国を拝領できた理由は、
この「掛川城明け渡し」の件と「千代からの密書」の件が大きかったと言われています。

ですから、遠江・掛川6万石→土佐一国24万石というのは、
一豊と千代がふたりの知恵を合わせて勝ち取った証と言えそうです。

ちなみにこの話しには後日談があります。
実は、城や兵糧などを全て明け渡すという案は一豊が考えたものではなかったのです。
一豊は評定に向かう際にこれからのことを堀尾忠氏という武将に相談したのですが、
そのときに忠氏が「こんなのどうですかね」という感じで軽く言ったことを寸借したのです。

一豊はも結果的には、一世一代の発言までも他人に助けてもらったわけですが、
これもやはり彼の人徳によるものと言えるのではないでしょうか。

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