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山内一豊(1546〜1605)※生年については45年説あり
土佐山内家・初代藩主。
対馬守を経て従四位下土佐守。
愛知県出身で幼名は辰之助、通称は伊(猪)右衛門。

父は岩倉織田家で家老を務めた山内盛豊。
母については様々な説があるが梶原氏の娘が有力。

兄の長十郎は山内家の居城・黒田城を夜襲された際に討死し、
父・盛豊も岩倉城攻防戦の際に討死したために一豊は13歳で山内家を相続します。

1567年から1570年の間に織田信長の家臣となり武将としての生活が始まります。
越前攻略戦、姉川の戦いで戦功あげ、近江唐国に200石の知行を拝領します。

それ以降も、派手さはないのですが、堅実・着実に武功をあげ、
1585年に近江長浜2万石、1590年には遠江掛川5万石を拝領します。

そして、1600年の関ヶ原の戦いでの2つの忠義が高く評価され、
家康から土佐一国24万石を拝領します。
※20万石という説もあり

土佐入国後は、長宗我部の遺臣たち(一領具足)に苦戦するも、
なんとかこれを制圧し、高知城の築城や城下町の整備に力を注ぎました。

そして、1605年に没。法号は大通院殿心峯宗伝。
墓は京都・大通院の堂内に千代の墓と並んでいます。

※詳しい年表は「山内一豊の詳細年譜」ページをご覧ください。
 
千代(1557〜1617)※生年については諸説あり
名は千代。※「まつ」という説もあり
一豊の没後は出家し、見性院と名乗りました。
晩年は土佐ではなく、京都で過ごしたと言われています。
そのため彼女の墓は京都市内の大通院にあります。
千代の死後、一豊の墓も土佐から京都に移されました。
これは千代が亡くなる前に「一緒の墓に入りたい」と望んだのかもしれません。

戦国武将の良妻賢母と言われれば必ず名前の上がる彼女ですが、
生年や出自などの詳細が不明で、いろいろな説が唱えられています。

まず生年に関しては1557年説が有力です。
そして意見が真っ二つに割れている出自についてですが、
これまでは近江の浅井家家臣・若宮喜助友興の娘との説が有力でしたが、
最近では美濃の郡上八幡城主・遠藤盛数の娘という新たな説が出てきました。
どちらも確証できるような資料がないために、現在においても詳細は不明です。

現在はやや遠藤説が有力のようですが、遠藤説では身分の違いの問題があります。
結婚当時の一豊は知行も少なく(数十石)、豪族の娘とは釣り合いがとれません。

このように謎の多い彼女ですが、一豊に嫁いできたことだけは事実です。
そして一豊が下っ端の馬廻り役だった頃からずっと山内家を支えていったのです。

生活が苦しかった頃、米を量るマスを裏返しにしてマナ板代わりにしていたという話しや、
他にも一豊の家臣たちに飯を食わせるために髪を売った話しなどが伝えられています。

しかし、なんと言っても千代の良妻賢母振りが如実に出たのは、
黄金十枚で駿馬を買わせた話し」と「一豊への密書」のときだと思います。
これらについては別ページでまとめましたので、ご覧ください。

とにかく、平凡でただ実直だけが取り柄の一豊が出世できたのは、
彼を裏で一生懸命に支えていた千代の存在が大きかったようです。

事実、一豊は千代以外に妻を娶りませんでした。
戦国時代の武将は正室のほかに多くの側室を持つのが通常でしたが、
一豊は千代をよく愛し、大切にしていたということがよく分かります。

一豊と千代の間には1人だけ、女の子が生まれたのですが、
長浜在城時の大地震により若くして亡くなってしまいます。

その翌年、山内家屋敷前に捨て子があり、これを引き取り、拾と名付けて養育しました。
一時は子のいない山内家の跡取りにしようと考えたこともあったようですが、
家臣などの反対もあって、山内家の連枝衆として僧籍に入れることにしたようです。
山内家の2代目は一豊の弟・康豊の嫡男・忠義が継ぐことになりました。

千代は拾をとてもかわいがっていたので、離れるているのは寂しかったのでしょう。
一豊が土佐一国を拝領した時に拾を土佐に呼び寄せて、寺を建立しています。

そして1617年12月、千代は61歳の生涯を終えます。
雪が激しく降る夕方に息を引き取ったと伝えられています。
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