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山本勘助のご紹介
山本勘助晴幸(1493年〜1561年)※出生年いついては1501年説も有り

1493年に三河国牛窪で生まれる。父母は不明。
なお、出生地については他に駿河国山本・三河国賀茂などいくつかの説がある。

大林家の養子になった後、26歳のときに見聞を広めるために家から出る。
(大林家に実子が誕生したために遠慮して大林家を出たとする説もある)

諸国を10年以上放浪した後、今川家に仕官するために駿河国に入国するが、
7年経っても音沙汰がなく落胆していたところに武田家から仕官の誘いを受ける。
(甲陽軍艦によると、仕官の誘いをしたのは武田家の両職を務めた板垣信方)

この誘いを受け、1543年に甲斐に入国し、武田家に
200貫で召抱えられる。
(最初は100貫の予定であったが、晴信が勘助の面構えを見て200貫とした)
その年の信濃侵略戦で抜群の軍功をあげ、100貫を加増され知行
300貫となる。

1550年の村上義清との戦いで軍功をあげ500貫を加増され知行
800貫となる。
その後も信玄と共に各地を転戦し信玄の信濃平定に尽力する。

1553年には川中島近辺に海津城を築城。
勘助が築城にかかわった城は海津城の他に高遠城、小諸城などがある。

1559年には信玄の出家に伴い、勘助も出家する。法号は道鬼斎。

1561年、川中島の戦い全5回の中で最も激戦となった第4戦が勃発。
両軍合わせて1万人近くの死者が出たといわれるこの戦いで討死する。

この戦いで勘助は信玄に「啄木鳥戦法」を提案し採用されるが、
事前に武田軍の動きを察知した謙信に見破られて武田軍は一転して窮地に。
勘助は作戦失敗の責任をとる形で敵軍に飛び込んで行ったといわれる。

享年69。

なお、嫡子・勘蔵は設楽が原の戦いで戦死したと「甲陽軍艦」「甲斐国志」は伝える。


参考:当時、1貫=10石前後

年譜は「山本勘助の詳細年譜」のページをご覧ください。

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